幼少期

私は、政治とは無縁の兼業農家の次男として1980年長野市に生まれました。
二歳上の兄と共に幼い頃から家業である農業を手伝い、朝は早くからぶどうを収穫して市場へ出荷し、夜は翌日出荷用の箱を準備するなどして、農業中心の毎日を過ごしていました。
東部保育園には年中の途中から通い始め、毎日、友達と泥んこになって遊んでいました。

小学校時代

篠ノ井東小学校時代は生徒会長を務めました。勇気を振り絞って立候補をしたことを、今でもよく覚えています。
とにかく運動が大好きで、放課後は野球に明け暮れ、帰宅後は農業を手伝いました。週末は一日中畑仕事だったので、毎週月曜日にあるスイミングクラブが楽しみでした。
6年間通い続けたおかげで、水泳大会では何度か新記録を出すことができました。
中学校時代

篠ノ井東中学校時代は、クラスでは一年生の時からルーム長を、水泳部では部長も務めました。
部活仲間とは今でも親交が続き、定期的に集まる仲です。英語と体育が得意で、中学までは、将来は学校の先生になりたいと考えていました。
曲がったことが大嫌いで、先輩・後輩に関係なく間違っていることに対しては、とことん向き合っていくような性格でした。

高校時代
良くも悪くも自分らしく過ごせた子供時代から一転、長野日大高校時代の私は、新しい環境に馴染めず、入学早々に胃潰瘍で入院する事態に。
その後は陸上部に所属し、二年生ではルーム長を務めましたが、高校時代を通して大人社会の裏・表や、それに纏わる複雑な人間関係を知り、受け入れ難い理不尽さも味わいました。

そして、こんな状況を変えたい、変えなければならないと心の底から強く思い、そのために政治家になろうと決意しました。この時の思いと決意は、今現在に至るまで揺らぐことがなく、私が政治家として目指している社会観・世界観の固い礎になっています。

そして、こんな状況を変えたい、変えなければならないと心の底から強く思い、そのために政治家になろうと決意しました。
この時の思いと決意は、今現在に至るまで揺らぐことがなく、私が政治家として目指している社会観・世界観の固い礎になっています。
大学時代
中央大学に進学し、政治学や英米法、文学を学びました。学生生活では、大学の代表として『政治を語る前に』のタイトルで弁論出場し、他大学の学生たちとの激しい論戦を通して「自らの意志と覚悟が、社会・国を変える」と肚が決まり、自分の内側から湧き上がる情熱と責任を感じました。

現在のようにインターネットが普及していなかった当時、その思い一つで政治の世界へ飛び込もうとした私は、具体的にどう行動すればよいのかも分からないまま、とにかく連日、国会議事堂へ通い続けては、入口の守衛さんと談笑を繰り返す日々でした。
やがて、そんな私を偶然通りかかった代議士が見るに見かねて、話しを聞いてもらえる幸運に恵まれました。
これを機に、私は念願だった政治の世界への一歩を踏み出しました。国会議員や都議会議員など、様々な議員事務所でインターンを経験し、彼らの選挙を手伝い、生々しい政治を目の当たりにもしました。
政治の世界を本気で目指すには、社会経験・人間経験が、今の自分には圧倒的に足りていないと痛感して、数々のアルバイトも体験しました。

大学時代にはバイクや車に大いにハマり、GSF1200S、隼1300Rと乗り継ぎました。愛車隼1300Rは現在も保持していますが、ここ数年は観賞用になっています。
大学一年生でJAFカーライセンスを取得し、大会に出場。その後は、国際ライセンスも取得し、メカニックについても学びました。

趣味とはいえ、本気で取り組んだことで、情熱的なモチベーションと冷静な判断力の双方が必要であることや、そのバランスが重要であることを学びました。
ここで得た人と人との繋がりや人脈の大切さ、表からは見えない裏方にこそ洗練されたプロの仕事が必要不可欠であるという気づきは、その後のキャリアにも活かされています。
大学時代にはバイクや車に大いにハマり、GSF1200S、隼1300Rと乗り継ぎました。愛車隼1300Rは現在も保持していますが、ここ数年は観賞用になっています。
大学一年生でJAFカーライセンスを取得し、大会に出場。その後は、国際ライセンスも取得し、メカニックについても学びました。
趣味とはいえ、本気で取り組んだことで、情熱的なモチベーションと冷静な判断力の双方が必要であることや、そのバランスが重要であることを学びました。
ここで得た人と人との繋がりや人脈の大切さ、表からは見えない裏方にこそ洗練されたプロの仕事が必要不可欠であるという気づきは、その後のキャリアにも活かされています。


海外時代
大学卒業後は、日本以外の社会情勢や政治を知りたい思いから渡米を決意。米国議員事務所関係者に連絡を取り続け、国内外の様々なご縁と支援を頼りに米国カリフォルニア州ロサンゼルスの議員事務所にスタッフとして勤務することになりました。
そこでは、地域コミュニティ支援や政策立案サポート、在米日系人との友好推進を担当。
戦時中に捕虜となった在米日系人の方々やそのご家族と実際に出会い、過去から現在に至るまでの歴史や苦難の体験を拝聴するうちに、真に国民のためになる政治を行う必要性や、政治家には結果責任を負う覚悟が求められること、そのためには、より大きな視点から物事を見なくてはならないと痛切に感じました。

この中で親交を結んだMr.Shirasagoこと白砂氏は、日本語がほとんど話せませんでしたが、名刺には「日の丸」と白砂家の家紋が印刷されており、終戦から半世紀以上の時を経ても尚、変わることのない愛国の思いと母国への希望に深い感銘を受けました。
職務中、治安の悪いエリアで襲撃に遭い、治療のために一時帰国する程の大怪我を負ったこともありましたが、多様な人種・民族の人々が入り混じり、様々な格差が広がる大都市での社会経験から、政治や政治家が本当に果たすべき役割を、改めて我が身で実感することができました。
帰国後

一般社団法人 日本地域科学総合研究所
NPO法人 地域コミュニティ再生推進研究会
帰国後は、日本社会にまず必要なのは「地域の自立」であると考え、「Think Globally, Act Locally.(地球規模で考え、地域で行動する)」を実践すべく、公的シンクタンクである日本地域科学総合研究所の設立に参画。
大学教授や博士といった有識者たちと共に、理事兼主席研究員として出発し、財務コンサルや調査分析、議員事務所を訪問して各種の政策提案等を積極的に行って参りました。
そのなかでは、日本の各地域が長い歴史と固有の文化に根ざすが故に生じる、実に複雑かつ多岐に渡る課題にも直面し、思い描く理想の未来と現実との狭間で、どのように分析・政策提言するべきか苦慮することも多々ありました。
このようなシンクタンクでの活動経験から、国の政策が各々の地域特性を無視した画一的な中央集権体制である限り、地域にとっては選択肢が限られてしまい、その結果、どこも似たり寄ったりな「ものまね」になりかねない事態を危惧し、地方分権と地域の自立の必要性をより一層感じました。

また、仕事のかたわら「地域コミュニティの再生」をテーマに、NPO法人として地域コミュニティ再生推進研究会を設立し、若者や学生たちと共に、農作業やゴミ拾い、夜回り、学校訪問等の活動を始めました。
児童養護施設で生活する子供たちとも深いかかわりを持つようになり、現在に至るまで交流を続けています。
現在

辻・本郷グループ 取締役
経済産業省 検討委員、各種登録専門家
現在は、辻・本郷グループの取締役として地方創生推進の統括を行い、地方の中小企業をはじめとした民間企業を対象に、経営課題の解決や業績向上のための様々なサービスを提供する他、自治体のアドバイザーも務めています。
また、経済産業省の検討委員や各種登録専門家として、内閣府や経済産業省における助成事業サポートや各地のまちづくりサポート、各省庁や議員への政策提案等も行っております。
同時に、地元である長野での活動にも力を入れており、これまでに、福祉、教育、地域経済に渡る幅広い分野での審議会委員や学校評議員、アドバイザーを務めて参りました。

休日は、地域のスポーツ振興と次世代アスリート育成のため、元プロスポーツ選手を迎えた子供向けイベント等を多数開催。
未来を見据えて、よりよい日本を創造していくためには、先ず地方・地域の自立と活性を目指す「地方(まち)づくりは、国づくり」との思いを胸に、地方「再」創生のプロとして日々精力的に活動しております。